キングダム好きの多くが心を揺さぶられた”函谷関の戦い”。
本来、攻められる立場である秦の将軍「桓騎」が、あえて敵の目を欺いて地上に降りて戦う奇策を出したりと色々な印象深いシーンがたくさんありました。
桓騎の名言である「全部うまくいく」が登場したのも、この奇策を発動する前にひるんだ雷土に向けて放った言葉でした。
ちなみにこの「全部うまくいく」という桓騎の名言は、ヤングジャンプが主催したキングダム第一回名言総選挙で見事1位を獲得しています。
ちなみに獲得票数は2270票でした。
楚・趙・魏・韓・燕の5か国の合従軍に攻められ、圧倒的に不利な状況であったにも関わらずなぜ秦は勝つことができたのでしょうか?
実際の史実をもとに考察してみました!ちなみに函谷関の戦いはこんな戦いでした。
名称 | 函谷関の戦い |
時期 | 紀元前241年 |
どこが戦った? | 秦 vs 合従軍(趙・楚・魏・韓・燕) |
将軍 | 秦側(蒙驁など) 合従軍(龐煖、春申君など) |
戦力 | 秦20万人 合従軍80万人 ※諸説あり |
圧倒的不利な状況で、合従軍に秦が勝てた4つの理由

いやあ、函谷関の戦いめちゃめちゃ面白かったなあ。まさか5か国が連合を組んでくるなんて秦はびっくりしただろうね。



各国はいくら秦に恨みがあるといってもさ、5か国で寄ってたかって秦を倒しましょう!というはほぼイジメだよね。笑



そもそも何で秦はそんなに恨みを買ってたの??



昔、各国を侵略していたからだよ。特に趙なんかは長平の戦いで秦にかなり虐げられたから、「何としてでも潰してやる!」という強烈な恨みを持ってたみたいだね。



楚の考烈王が総大将で、総司令を春申君として合従軍が起こったって言われてるけど、実際は趙が起こしたんじゃないかっていう説もあるみたいだね。キングダムの作中でも李牧が合従軍をおこしてるしね。



人の恨みは買うものじゃないね・・・・



本当にそうだよ。そもそもそんな5か国が攻めてくるような苦しい状況で、なんで秦は勝つことができたんだろ?



それに関しては色々な要素があるみたいだよ。史記には実は函谷関の戦いはあまり記述がないんだ。だから推測ベースにはなるんだけど、理由を4つ考えてみたよ!
理由1、函谷関は天然の要塞で攻めるのが難しかった
理由2、春申君はそもそも函谷関突破を狙っていなかった
理由3、各国の有力な武将は参戦させていなかった
理由4、合従軍の連携不足



一つずつ見ていこう!
理由1、函谷関は天然の要塞で攻めるのが難しかった
函谷関は東からの侵攻を防ぐ要所で、崖などの自然の地形を利用した天然の要塞と言われています。函谷関がある場所は、山間で光が差し込まず、狭い道が続くことから「まるで箱の中にいるようだ」ということから函谷関という名前がつけられました。
実は函谷関は、旧関(秦関)と新関(漢関)があり、66mの高さの3層の城壁があったと伝わっているのは前漢代に作られた新関の方ですが、140kmほど西にあった旧関もほぼ同じ規模だったのではないかと推測されています。
ビル20階建ての建物が約60mくらいだと考えられていることからもわかるように、函谷関はかなりの大きさがありそうです。
キングダムの作中では井闌車(せいらんしゃ)で函谷関を攻略するエピソードが出てきますが、あれは完全にフィクションです。木製で60m超のあんな動く建物を作るなんて不可能ですからね。
函谷関は今でも残っています。
キングダムでも登場した旧関は項羽の侵攻によって、破壊されましたが、1992年に復元されました。新関は1926年の中国の内乱の際に破壊され、その後、特別に建て直されましたが1958年に溶鉱炉のレンガに使うために城壁が解体されております。
難攻不落と言われた函谷関ですが、実は過去に2回突破されています。
一度目は楚の項羽、二度目は戦国四君で知られる孟嘗君によって突破されました。
両方ともしっかりと戦って突破したものではなく、項羽の際は、秦は先に咸陽を劉邦によって壊滅させられていたため函谷関を守る戦力が薄かったようです。
二度目の孟嘗君の時は、鶏の鳴き真似が上手い食客を利用して、一番鶏の鳴き真似をさせ、周囲の鶏が朝と勘違いして鳴きはじめ、函谷関の関守は朝だと思って、門を開かせたそうです。
孟嘗君のエピソードはなかなか個性的ですよね。
過去正攻法で突破されていないことを考えると、当時、函谷関がいかに難攻不落だったかがわかりますよね。
理由2、春申君はそもそも函谷関突破を狙っていなかった
春申君は難攻不落の函谷関を突破するつもりはなかったのではないか?という考察もみられました。
というのも、武王の記述に、「函谷関の門を開いたが攻撃せず、秦が合従軍に対して攻撃を仕掛けた」といったものがあったようなのです。
作中では桓騎が雷土らと一緒に、地上に降りて戦うシーンがあります。もしかすると作者の原先生は、この記述からインスピレーションを得たんじゃないのかなあ、なんて思えたりもしませんか?
では、そもそもなぜ春申君は函谷関突破を狙っていなかったのでしょうか?
その理由は、最強の趙の将軍である龐煖が率いる各国の精鋭を集めた”別働隊”の存在があったからなんです。
その別働隊は蕞を攻撃し、最終的には秦の首都である咸陽を陥落させる目的を果たすべく侵攻しておりました。龐煖が率いる別働隊は函谷関を通らない南道を進み、蕞まで到達しました。
要するに、函谷関をわざわざ突破しなくても、別働隊がうまく立ち回ることができれば、秦を滅ぼすことは可能だと考えることもできた訳です。
函谷関に敵の主力を貼り付けておけば、それだけ首都咸陽の守りは薄くなりますからね。
難攻不落の城にわざわざ挑んで、戦力を消耗させる必要はないわけです。史記に記述が残されていないので、あくまで推測にはなりますが、これだけの理由があれば、そうだったのかもしれないなと考えられますよね。
ちなみに、この別働隊は龐煖が大将となり各国の精鋭が集められた部隊だったようです。いかにこの別働隊に期待していたのかがわかりますよね。
龐煖率いる別働隊は結局蕞を攻略することができず、侵攻が失敗に終わります。なぜ、それだけの精鋭を集めておいて、それほど戦力が割かれていないはずの蕞を攻略することができなかったのか。
記述がないので、そこは謎に包まれたままです。
作中では秦王が蕞の住民を奮い立たせ、必死の抵抗をし、山の民の援軍によって勝利を収める胸アツ展開でしたよね。
理由3、各国の有力な武将は参戦させていなかった
各国の戦力を集結させた合従軍といえども、どの国も自国は敵の脅威から守る必要があります。
自国の強い武将全てを出陣させてしまうと、国の武力の弱体化とってしまうので、強い武将は残していたのではないでしょうか。
合従軍の背後には、連合に加わっていなかった斉の存在がありました。その他、いくら各国で同盟を組んでいるといえども、世は戦国時代であり、何が起こるかはわかりません。
各国から戦力を出すことは、知れ渡っているので、そこに付け入って侵略することも十分に可能であると考えられます。
ちなみになぜ斉は合従軍に参加しなかったのでしょう?
それは以前、斉が、燕の楽毅を総大将とした燕、秦、韓、趙、魏の5国合従軍に侵略され、滅亡寸前にまで追い込まれた過去があるからです。
この時は楽毅を謀略で失脚させることができたため、何とか復興できたんですが、これによって斉の勢力はみる影もなく衰退してしまいました。
そのような過去があり、斉は合従軍をひどく嫌っていたため参加していなかったという説があります。
その他、キングダムの作中に描かれているように、多額の賄賂を渡した説もありますが、定かではありません。
斉も合従軍に加わっていれば、更なる戦力アップになったでしょうし、戦争中に他国から侵略されるリスクも減り、かなり有利になっていたのではないでしょうか。
函谷関の戦いが終わった後、結局合従軍の標的は斉になり、侵略され饒安を奪われてしまいました。斉は、函谷関の戦いで味方をした秦にも結局は侵略され滅ぼされることになるので、なかなかに悔しい結果となってます。
理由4、合従軍の連携不足
合従軍は文化や言葉、価値観の違う各国のメンバーの寄せ集めだったので、連携が難しかったという考察があります。
一つの組織としてまとまりにくく、何か作戦をするにも、頻繁に会議を行って意識の統一を行わなければなりません。大人数で合戦をする以上、連携して動くことは重要で、連携できなければ、作戦をうまく遂行することはできません。
会議を頻繁に行うということは、意思決定のスピードが落ちてしまうことを意味します。戦況を見て、即断即決できないような状況であれば、どうしても相手の後手に回ってしまうことが多々あったと思います。
ましてや相手は多くの戦を経験している秦で、秦の兵たちは連携がとれているでしょうからね。
あと会議でも、普段は敵としてお互いを憎しみ合っている者どうしで行う訳ですから尚更作戦もまとまらなかったんではないでしょうか。
中には
「こんな奴らと一緒に戦ってられるか!」
「あの国に恨みがある。合戦の最中にあの将軍と刺し違えてやろうか!」
といった強烈な憎しみを持った兵も中にはいたんじゃないでしょうか?
そんな中で、作戦を立て、お互いを守りながら攻めるのは簡単ではないですよね。
なぜ最初から函谷関を通らず迂回して咸陽までいくことを考えなかったのか?



函谷関の戦いで合従軍が勝てなかった理由なかなか興味深かったね。



合従軍って各国からの寄せ集めだし、強そうだけど、連携がとれなかったりデメリットも多くあるんだね。



ふと思ったんだけど、何でわざわざ難攻不落とわかってて函谷関を攻めたのかな?



どういうこと?



突破が難しいのなら、函谷関を通らずに迂回ルートで行けば良いじゃん



そういうことか!でも、実は迂回ルートを行くことは現実的じゃないんだよなあ・・・・・
「難しいってわかってるなら、はじめから通らなければいいじゃん」
たぶんみなさんもそう思いましたよね。
この函谷関を通らずに迂回して咸陽まで至る戦い方は実は現実的ではなかったのです。その理由は3つです。
理由1、行軍が長期に及ぶこと
理由2、秦は迂回ルートを見越して十分に防戦の準備ができること
理由3、秦や他国に本国を侵略される可能性があること
それぞれ見ていきましょう。
理由1、行軍が長期に及ぶこと
秦の首都である咸陽は周囲を3000m級の高い山々に囲まれています。そのせいで、咸陽に攻め入ろうとすると、必然的に東の函谷関を通らないといけません。
要するに大軍で3000m級の山々を超えて咸陽まで到達しなければならないということになります。
そうなると食べ物や野営するための準備が必要になりますし、それだけお金がかかってしまいます。
そして、持ち物も多く、かつ、山登りもしなくてはならないため体力の消耗が激しいです。時間もお金も、兵士の体力すらも奪いながら進み、咸陽に到達できたとしても、消耗した状態で戦わなければなりません。
理由2、秦は迂回ルートを見越して十分な準備ができること
秦はもちろん周囲を囲む山々の地理の形状を把握していたでしょう。
迂回ルートで敵がやってくるとスパイを通して情報が得られれば、いろいろな罠を仕掛けることが出来ますし、山々に囲まれた迂回ルートに味方を配置して、行軍してくる合従軍を急襲することができます。
要するに、敵が咸陽に到達するまでに、さまざまな策を講じて、相手の戦力を削ることができるのです。
度重なる夜襲なども行えば、合従軍はただでさえ登山で疲れているのに、進軍どころではなくなるでしょう。
理由3、秦や他国に侵略される可能性があること
合従軍の進軍が遅れること=戦力が弱まること
を意味します。
合従軍の脅威が薄いと感じれば、秦や斉は、合従軍の進軍を足止めしているうちに他国に進軍することも可能です。その結果、領土を失えば、何のための合従軍かわからなくなってしまいます。
秦はこれまで戦を繰り返しており、経験もあり、優秀な軍師や武将たちも揃っていたので、例え規模が小さな軍であっても成果は上げることができたはずです。
そこに他国も脅威を感じていたのではないでしょうか。
まとめ
理由1、函谷関は天然の要塞で攻めるのが難しかった
理由2、春申君はそもそも函谷関突破を狙っていなかった
理由3、各国の有力な武将は参戦させていなかった
理由4、合従軍の連携不足
これらの要素が功を奏して、函谷関の戦いで秦は勝利を収めました。
咸陽の地理が恵まれていたこと、攻め入るルートが函谷関を経てからしか存在しなかったことを考えると、過去に咸陽に首都を敷いたことが良かったように思います。
こんな鉄壁の守りを誇っていたからこそ、秦はその後、中華統一を成し遂げることができたのではないでしょうか。どれだけ攻めて領地を奪ったとしても、自国の領土が奪われたら同じですからね。
5か国に侵略されるという圧倒的な不利な状況を跳ね返し、そこから巻き返しをして、秦は中華統一という偉業を成し遂げました。
どれだけ辛い状況にいても、その状況に負けずに、むしろ跳ね返し、成功に繋げることができる。
そんなメッセージをこの函谷関の戦いから受け取ることができるのではないでしょうか。